延喜式神名帳に「美嚢群(ミナギノゴオリ)一座御坂神社」とある。その延喜式内神社は当社とされている。
延喜式内神社とは、延喜式の神名帳に登載せられた神社をいうのであって、三木市美嚢郡(吉川町)に唯一座当神社が登載されている。
当神社については、播磨風土記にも「志染の里三坂にます神八戸掛須御諸神は、大物主、葦原志男命の国堅めたまひし以後に天より三坂峯(ミサカミネ)に下り給ひき」とあり、人皇第17代履中(リチュウ)天皇がこの神社にご参拝になったことも播磨風土記に記されている。
以後天正年間、羽柴秀吉が中国討伐の途次、三木の別所長治居城釜山攻めを行い、その際兵火にかかり焼失し、古記録一切烏有に帰したことが記録に残されていたということも、今はその記録を見ることが出来ない。
明治六年郷社に列せられ、大正三年四月神餞幣帛供進指定神社に遇せられて祈年祭、例祭、新嘗祭には郡長又は村長が幣帛供進使にたって随員を伴い、衣冠の装束を着して幣帛(神の供物)を供進したが終戦となり、その制もなくなり、現在宗教法人の護持運営の神社となった。 その昔十七代履中天皇が当神社にご参拝になり、「この川の流れは大変美しい」といわれたことからこの地域を美嚢群(ミナギノゴオリ)というようになり、また御食膳に「しじみ貝」が這いあがったというところから、この地をしじみというようになったと播磨風土記は語っているが、履中天皇の御在位は皇紀1060~1065、現在より逆算すれば1600年前に鎮座なしなる当神社は、今志染の里の氏神として、また拓けゆく緑ヶ丘町、自由が丘町、青山町の産土神(ウブスナガミ-その町の神)として、鎮守さま(その土地とそこにすむ人の守り神)として神しづまりますのである。